慶長五年、徳川家康は、息子・結城秀康の、関ヶ原での戦功が莫大であるとして、
播磨か越前、どちらかの国を褒美として与えたい、と言ってきた。
これに結城秀康は、家臣を集め協議させたが、そのうち長谷部釆女が、
「是非、越前を拝領なさいませ!」
と、熱心に言う。
しかし秀康は、
「世の人は日本の国において、一が播磨、二が越前と言っている。
やはり播磨が良いのではないか?」
と、答えたが、長谷部は、
「越前は大国で要害の地でございます。
そのうえ江戸まで、播磨よりも近く、京都へ行くにも便利で、
北陸の中心でございます。越前を御拝領なさるのがよいでしょう。」
と、あくまで越前を薦める。
そこで秀康もその気になり、越前を拝領する事に決めた。
そして後日、冬のある日。
結城秀康は、長谷部釆女を呼んで、こう言った。
「播磨か越前のどちらかを下し置かれるというので、相談したところ、
お前は、
『越前をお望みなさるのがよろしいでしょう。』
と言ったが…。
お前の生れ故郷という理由で、こんな大雪の降る国へ移させたのだな!」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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