天正六年(1578年)ごろ、
三河・遠江に踊りが一年中流行したが、
これは岡崎三郎殿(松平信康)が好んだためであった。
先年、駿河で踊りが流行した時には、
今川氏真が滅んだので不吉である、と諸人は申した。
三郎殿はたいへん乱暴な方で、下手な踊り手がいれば弓で射殺した。
そのため踊りは、ずいぶんけっこうなものとなった。
そのころ大浜の踊り子のなかに、
太鼓を打っている十五ほどの容顔美麗な童がいた。
三郎殿が、父の名を尋ねると、
「大浜明神の社人・長田平右衛門の息子です。」
と申した。
平右衛門は有名な勇士であったため、すぐにその子を召し使った。
長田伝八という名で出世したが、
三郎殿の死(1579年)ののちは家康公に召し出された。
長田壱岐(源義朝を殺害した長田忠致)の末裔であったため、
苗字を永井と改めさせた。
長久手の戦いで、池田勝入(池田恒興)を討ち取るという功名を成し遂げた、
永井右近大夫(永井直勝)その人である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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