天正7年己卯、家康公38の御歳、
また山西へ麦苅り捨ての御働きをなさる。
その年、信康(松平信康)は家康公の御気に背きなさった。
その子細は万事(信康の)御心のままにして御行跡は、法に過ぎたものであった。
家康公の御意見をも御用いなく御気随に行わせ給い、
家老衆の諫言を、なおもって御取り上げなさらなかった。
このため衆の讒言あって、勝頼(武田勝頼)と御内通あって逆心の由を、
申し上げられたことにより、家康公の御立腹は世の常ならず。
「子の身でありながら父に弓を扱う事、前代未聞の次第なり!」
と岡崎の城を出し給い、大浜へ移して堀江の城へ御越しになる。
それより二股の城へ移らせ給い、
服部半蔵、天方山城の両人に仰せ付けられて御生害となった。
信康が宣うには、
「父に弓を扱うというのは全くの偽りである。年寄どもの讒言なれば、
この上はとかく申し分には及ばず。」
と、2人の御女子の御事と御菩提は大樹寺を頼むと仰せ置かれ、
大久保一類とその他に御親身申す者どもの方へ御形見を送らせ給う。
念仏を御唱えになって腹を十文字に掻き切り、
「服部介錯申せ。」と宣えば、三代相恩の御事なれば半蔵も刀を捨て落涙する。
「早く早く!」
と宣うも力及ばず、遠州の住人の天方山城が泣く泣く御介錯し奉る。
惜しむべし、惜しかるべし。
その年8月15日、行年21にて生害し給うなり。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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