徳川家康が、二条城で物語をしていた折、
「現在、天下には、加藤肥後守清正に及ぶものは居ない。」
と発言した。
この時、本多佐渡守正信は、例のごとく空寝していたが目を見開き、
「殿は、どなたを褒めたのですか?」
と尋ねた。
家康は、これを聞くと、
「加藤肥後の事だよ。」
「加藤肥後…? それは太閤の時に、虎之助と言っていた小倅のことですか?」
家康、呆れたように、
「肥後の事を知らない者が、おるものか!」
「いやいや、それがしも年老いまして、もの忘れすることの迂闊さよ。
されど、殿が信玄謙信を始め数多の名将を御覧し尽くされてきた、
その御目で、加藤などのことを、褒められるのはどうしてでしょうか?
それにしても加藤にとっては、この上なき名誉なことです。」
「肥後のことは、私は、よく知っている。
現在、彼に西国のことを任せておけば心安いのだが、
彼には一つ疵があるので、ひたすらに頼むというわけにはいかないな。」
正信、驚いたように、
「疵? それはどういうものですか?」
「肥後は、ものに危うき心がある。
今、少し心落ち着けば、実に彼に立ち並ぶ人物は居ないであろう。」
「なるほど、仰るとおりです。
危うき心があって、剛気に過ぎるのは、大いなる疵です。
武田勝頼にも、そのような癖があった為に、ついには国を失いました。
惜しむべきことです。」
この座には、京の商人などが陪席していたのだが、
彼らが後に、この会話の内容を清正に告げ伝えた。
清正は、これを聞くと、
「さては、家康公は、私を心危うき者と考えられているのか。」
そう思い、これより物事を慎重にするようになった。
後年、本多正純が、その父・正信に、この事を尋ねた事があった。
正信が、語ったことは、
「これは実際には、清正を褒められたものではない。
その頃は、当家草創の時期であったから、
清正がもし鎮西の人々を糾合して秀頼に与党せしむれば、
由々しき事態となったであろう。
しかし、殿の『彼に危うき心がなければ。』との一言が、
彼には何となく心の重石になって、生涯過誤無く果てた。
これは家康公の御智略の深遠であり、凡慮の計り知ることではない。
それを何だお主は、言葉の表面の意味だけだと思って私に問うてくるとは。
お前は知慮が浅い!
その心では天下の機務を執る事など出来ないぞ。
よくよく工夫せよ。」
と諭したのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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