秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。
この時、石田三成を殺すべく評議した。
これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。
寄り合った諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。
しかしながら、家康公に従い奉るべしとは、思わなかったのだという。
この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。
佐渡が申すには、
「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。
今は石田を憎んで皆公に組しています。
石田の様子は、この分際でいるような者ではありません。
大いに催して打ち出ることでしょう。
その時に討ち果たしなさるべきなのです。
これ当理の謀なり。」
案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆、佐渡の智謀なり。
後々年に至り、公が佐渡の申すことに御同心無き時に、
「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか。」
と度々申し上げられたのは、この事である。
黒田長政が申されるには、
「あの折に、伏見で、治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった。」
と後々申されたのだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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