汝は、この夜中にどこに行っていた☆ | げむおた街道をゆく

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豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、

或る夜、密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた。
「今夜、大坂より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」

家康も、この情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、

一時(約2時間)ばかり過ぎて、

外より馬を駆けて帰ってきた。

 

すぐさま御前へとでたが、
「汝は、この夜中に、どこに行っていた。」
と尋ねられると、

 

直政、
「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。

それ故、不審に思い、外の状況を確認しに出かけたのです。
流石に殿ほどの御弓取りに対し、

大坂より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にも、これが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、

その他の辻々、所々に押し寄せるでありましょうから、

御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、

少しでも心もとない場所を見廻りましたが、

どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」

こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。

この風聞は、江戸でも取り沙汰され、

「内府公は、御生害された。」

と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
 

さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に、

追々出立したが、伏見に到着するのは遅速あって、

早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
 

瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。

こうして到着した人々が、家康に御目見得した所、

「お前たちは、どうしてこちらに上がってきたのか。」

と尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、

「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。

ゆるゆると休息し、上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」

そう仰せ下した。

これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、

巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで、聞伝えに、

我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。

 

これは領民たちも、大神君の神恩に起伏した故なのだろう。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 井伊の赤鬼、井伊直政

 

 

 

ごきげんよう!