一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、
「宝貨に替えん。」
と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。
しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、
上方にて石田(三成)の反逆の事が起こり、奥に上杉、
後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、
ここで康政が満座の中、御前に出て、
「上方蜂起、さてさて恐悦です。」
と、殊の外喜ぶ様子で語った。
「いかなれば康政はかく申すぞ。」
家康が尋ねると、
「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、
聊かの押さえの兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。
また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。
この康政が一陣に進めば、一戦に打ち崩すでしょう。
そして後、勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、
その時に彼の肩衝を、この康政の軍賞として頂きたい。」
そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、
さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。
関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、
彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、
康政に献上するよう命じたものの、
「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う。」
と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。
ある時、康政が、細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、
康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。
康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ、
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。
今回三斎に仰せ付けられ奪わせたのだ。』
とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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