関ヶ原の合戦の時、徳川家康は、慶長5年(1600)九月一日に江戸を発った。
合戦の当日、徳川秀忠は信州上田にあり、
その後、家康は関ヶ原の勝利の後、草津に在陣していた所に、秀忠は着陣した。
そこでは井伊・本多の部隊を始めとして、関ヶ原の合戦で負傷し、
甲冑指物などを損じた者達が多く居た中、
秀忠の軍勢は皆見事な軍装束であったため、
それが却って見苦しく見えたと言い伝えられている。
秀忠の着陣を知った家康は機嫌を悪くし、対面を許さなかった。
これに対し、秀忠と伴に着陣した榊原康政は家康の御前に出ると、
一気呵成に畳み掛けて申し上げた。
「この度、中納言様(秀忠)が、御着陣が遅い故に御対面なされないというのは、
実に御情け無い義であると存じます。
武辺の事において、他人との間であれば、
『出し抜き』
と申す事もございます。
ですが父子の間で出し抜きをされ、その上、御勘当までなさるとは、実に情け無い。
武道の義について、中納言様にはもはや御廃りに成ってしまいましたぞ。
そもそも上様がこのように合戦をされたのは、御子孫の為であるはずです。
なのにその御子様に自ら武道の疵をお付けなさるとは、
これ以降、御家もその武道も、衰える成り行きと成ってしまうでしょう。
誠に、御思慮無き義でございます!」
これを聞いた家康は、殊の外不機嫌となり、
「それは式部(康政)の、
逆公事(訴えられるべき相手から,訴えるべき者が逆に訴えられること)と、
言うものではないか!
一体いつ私が出し抜きをしたというのか。
その理由を申し述べよ。
申し述べられなければ、その分にては相成るまじ!」
そう怒ったが、康政は少しも恐れず、
「さればその事についてですが、よくよくお聞きくださるように。
九月一日に江戸を御出立なされたのであれば、
その知らせは前日には、中納言様に送られたことでしょう。
ところがその知らせが我々に届いたのは、ようやく九日になってでした。
そこから昼夜急ぎ向かいましたが、
木曽川に出水があり途中も差し支えたため、
この様に間に合わなかったのです。
これは出し抜きではないというのですか!?」
家康はこれを聞くと、
「何を出鱈目を申しておる!?
私が一日に江戸を出立するという事は、その前日に伝えるよう飛脚に申し付けた。
であるから二日以内には届いているはずである!」
「いいえ、その飛脚が到着したのは九日であること、紛れもありません。
その使いの者にどうぞお尋ねください!」
これに家康は即刻詮議をし、使いの者は家康の出立の前日に江戸を出たものの、
途中の川で洪水が起こっており、道を通ることが出来ず、
そのためようやく九日になって到着したことを申し上げた。
ここで康政は申し上げた。
「そういった訳があったのに、ご究明もなさらず、
中納言様の落ち度とのみ思われ御勘当なされるというのは、
近頃にない御思慮無き事です!」
これに家康は非常に困惑し、
「なるほど、そういうことなら尤もである。」
と、康政に向かって謝罪した。
そして今晩、夜になってから秀忠と対面したいので、
参られるよう申してほしいと仰せに成った。
こうしてその夜、対面がなされた。
その席では父子とも非常に機嫌よく談笑した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!