榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、
豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた。
『秀吉は織田家取立の臣でありながら、
その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、今度は北畠(信雄)殿に敵した。
誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして天罰が無いだろうか。』
これに、秀吉は大いに怒り、
「榊原小平太を、生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以って、これを賞する。」
そう諸将に伝えた。
その後、秀吉は、関白となって京に在り、
信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの事で、その準備が整うと、
「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を、遣わされるように。」
と所望した。
家康が、これを伝えると、康政は、畏まって受け、早速、上京した。
康政が、京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れて、こう言った。
「今度、私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、
先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して高札を立てた憎さよ。
私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。
しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。
誠に武臣たる者の実義は汝にある。
私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」
それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。
総じて、この頃の徳川家諸将の、官名の多くは僭称であったが、
この時、康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。
秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、
十二万石の大名として、秀吉によってあえて呼ばれた。
しかし康政は、終始、数正と言葉をかわさず、
その後、御暇申し上げ、三河へと帰国した。
人々は、康政の節操に感じ入ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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