武臣たる者の実義は、汝にある☆ | げむおた街道をゆく

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榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、

豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた。

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、

その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、今度は北畠(信雄)殿に敵した。

誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして天罰が無いだろうか。』

これに、秀吉は大いに怒り、
「榊原小平太を、生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以って、これを賞する。」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は、関白となって京に在り、

信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの事で、その準備が整うと、

「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を、遣わされるように。」

と所望した。
 

家康が、これを伝えると、康政は、畏まって受け、早速、上京した。

康政が、京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れて、こう言った。
「今度、私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、

先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して高札を立てた憎さよ。

私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。

誠に武臣たる者の実義は汝にある。

私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。

総じて、この頃の徳川家諸将の、官名の多くは僭称であったが、

この時、康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、

十二万石の大名として、秀吉によってあえて呼ばれた。

 

しかし康政は、終始、数正と言葉をかわさず、

その後、御暇申し上げ、三河へと帰国した。

 

人々は、康政の節操に感じ入ったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ ”無”の字の旗指物、榊原康政

 

 

 

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