永禄十一年(1568年)三月。
徳川家は、遠州の城々を攻め取らんと、尾藤彦四郎らが籠る堀川の城を攻めた。
先陣は、松平信一、榊原康政が務める。
康政は、配下に向かい、
「私は、若年でありながら、このような寵任を蒙り、一隊の主将となった。
その上、御諱の字さえ賜り、御恩の深高なること、山海にも比し難い。
明日の戦は、かならず一番乗りを遂げて、盛意に報いるぞ!」
と宣言した。
その日、康政は、早朝より紺地に無の字の指物をさし、
笹切という鎌槍を掲げて、一番に城へ攻め入り、
散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負って、なおも進み、遂に城を乗っ取った。
その後、康政の傷を見た徳川家康は、
「この深手では、もう助からない。」
と思い、康政に、
「後事に思うことあらば、つつまず申せ。」
と言った。
康政は、畏まって、
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は、衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。
この外に思い残すことはありません。」
と申した。
家康は、すぐに二人を召し出して感状を授けた。
ところが後に、康政は思いもよらず回復を遂げたので、
家康は、大層喜んで、様々な慰労の言葉をかけたのだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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