この忠勝の答えを、天下の人々は☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

本多忠勝の忠勇は、世の人に知られていた。

中でも豊臣秀吉が小田原を手に入れ、奥州白河まで動座して、
宇都宮に滞在した時、徳川家康家老の本多に用があって呼んだ事があった。

 

その節、忠勝は一揆退治として、
下総の庁南にいたが、早々と宇都宮に参った。

秀吉は諸大名出仕の中で、

「わしはこの度、熊野山より佐藤四郎忠信の兜を求めた。

兜の主・忠信は、忠義も武勇も、数百年の後まで人に語られて知らぬ者はいない。

その忠信に変わらぬ剛の者に、この兜を取らせたいと思う。
天下に忠信と同じ兵は誰がいるだろう。」

と尋ねた。

 

諸人は謹んで申し出す者はいなかった。

すると秀吉は、

「忠信に勝るとも劣らぬ兵は、家康公家中の本多中務である。」

と言った。

その子細は、先年、長久手合戦の時、池田勝入父子と森武蔵守を、

家康に討ち取られた秀吉は無念至極なので、
六万人の兵で早々と楽田を出立し、長久手へ駆け付け、

家康の疲れ足へ仕かけようと揉みに揉んで行くと、
五百騎を率いた忠勝が四、五町を隔てて並び軍勢を進めていた。

 

忠勝は少しもひるまずに、
「今ここで秀吉公が戦を挑む時は軍勢を進めて前の妨げとなる。

秀吉公が長久手へ駆け付けることを滞らせ、
長久手表の家康公は十分に御勝になるだろう。

ここで秀吉公を遮り留めて討死し、上方勢の長久手到着を遅らせるぞ。」

と士卒に下知して、五百の小勢で本陣数万へひたすら挑戦し、鉄砲を撃ちかけた。

諸大将はこれを討ち取ろうと望んだが、秀吉は許さなかった。

両軍は並んで二里ばかり移動したところ、
鹿の角の兜を被った武者一騎が川岸へ乗り下し、馬の口を洗った。

 

秀吉はこれを見て、
「大将分の者のようだ。何者なのか見知っておらぬか。」

と問うと、稲葉伊予守が、

「本多平八です。」

と申した。

秀吉は覚えず感涙を流して、

「平八は先年、姉川で先陣して朝倉一万の中へ馬を入れたが、

その戦功が、ちょうど目の前に見えている。

只今、彼が小勢で秀吉の大軍に仕かけているのは、秀吉を道で手間取らせて、
家康に合戦をなし遂げさせるためだ。

古今の勇士、忠義の士である。

只今、平八を討ち取っても秀吉の運が極まれば、戦いに負けるだろう。

たとえ家康が数万の勇士を持つとしても、

わしの運が強ければ戦いに勝つであろう。

絶対に平八を鉄砲で撃ってはならぬぞ。」

と皆々に言って矢止めさせたのであった。

秀吉は、

「この場の働きは忠信にも勝るものだ。故に忠信の兜を中務に取らせる。」

と言うと、その翌日に、忠勝を呼んで先の件を話し、かの兜を与えた。

 

その晩、秀吉は忠勝を呼んで御前で茶を下し、その上で密かに、
「人はお前の武勇を知っているといえども、名を天下に知らしめようと忠信の兜を遣わし、

大剛一の兵と日本に披露したのは秀吉の恩だ。

それでは、家康の恩と、わしの恩とはどちらが深いと思うか。」

と尋ねた。

忠勝は頭を地に付けてとかくの答えもなかった。

だが、秀吉がしきりに問い詰めた時、忠勝は涙を流して、
「君の恩は海よりも深いものですが、家康公は譜代の主でございますので、

同日には申し上げられません。」
と答えた。

 

秀吉は機嫌を悪くして座を立ってしまった。

この忠勝の答えを天下の人々は誉めたのだとか。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 蜻蛉切、本多忠勝

 

 

 

ごきげんよう!