元亀3年10月中旬。
武田信玄による、徳川領三河、遠江への侵攻が始まった。
信玄は、遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、
家康方の侍大将の率いる、4千あまりの兵が、三ケ野付近に現れた。
信玄は、
「あれを逃さぬように討ち取れ!」
と命じた。
家康方は、武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢は、これを食い止めようとする。
家康勢が、まさに危機に陥った時、
家康の侍大将・内藤三左衛門(信成)という者が言った。
「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、
家康公もご出陣されていない!
この状態では、信玄のような名将に率いられた、
3万あまりの大軍と合戦しても、敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、
どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。
その時には織田信長公の加勢も期待できるだろう。
8千の三河武者に、それを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」
しかし、そうは言っても、既に戦闘は起こっており、
内藤三左衛門も、その場から引き上げることの出来かねる状況であった。
その時、本多平八郎(忠勝)は、25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、
おいおい武田の家にも知られていたが、
この平八郎が、黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、
身命を惜しまず、敵と味方の間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。
その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、
原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、
信玄の家中でも、多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には、過ぎた、本多平八郎の働きである。
そのうえ、三河武者は、10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、
歌に作って見付坂(静岡県磐田市)に立てた。
その歌は、
『家康に 過ぎたるものは 二つあり 唐の頭に 本多平八』
というものである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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→ 蜻蛉切、本多忠勝
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