慶長11年(1606)の事だという。
将軍・徳川秀忠が、鷹狩りを大原村(現埼玉県八潮市)行い、
舎人(現東京都足立区)の御殿で宿泊することとなったが、
その頃、大原と舎人の間は草野が広がり、また沼も多く、
人馬が進むのに誠に困難な場所であった。
そこで秀忠は、旗本の大川図書に道の補修を命じた。
大川は近隣の領民を集め草木を刈りそれをもって低湿地を埋め、
千住から越ヶ谷間までを、
ほぼ一直線に結ぶ新往還道を一挙に築き上げた。
この街道の完成に秀忠は大いに喜び、
「草を以て沼を埋め、往還の心安すきこと、これ一重に草の大功なり。
このところ草加といふべし。」
と命じた。
「沼地に草を加えたことによって街道となった。」
ということである。
これによりその地は『草加』と呼ばれるようになったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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