関ヶ原の合戦の後、
9月24日、徳川秀忠が、大名16名を引き連れ現れ、大坂城に到着すると、
すぐに大坂城へ使いを立てた。
『今回の戦乱中、伏見城にて討ち死にを遂げた、
鳥居元忠、松平家忠、同五左衛門三名の首を、
当地に取り寄せ実検を行ったとある上は、
この一乱、秀頼公の企てであるのは紛れも無い事であり、
これより攻め滅ぼさせていただく。』
この口上に大坂城中は驚愕し、秀頼の母である淀殿は、これを請けて申した。
『秀頼は未だ幼年であり、一乱を企てることは申すに及ばず、
首実検の事も、毛利輝元、その他奉行たちの仕業であり、秀頼の存ずる義ではない。』
そう一々に詫言したため、秀忠は京へ戻った。
そこで徳川家康が、この事を聞き、
「秀頼公については赦免し、今後は御蔵70万石ほど宛行うように。」
と仰せになった。
その発言までは、諸家も旗を張り立て一戦の支度をしていたが、
秀頼安堵の情報が伝わると、諸手ともに旗を治め休息した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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