慶長五年(1600年)九月二十三日の夜、本田上野介(正純)から、
「内府公(家康)、御持病も御快癒されましたので、明日、秀忠公に御対面なさいます。
また今度御供に召し連れた面々にも、御目見の御沙汰があります。」
と申し送りされたため、
翌朝、秀忠公は大津の城に赴きなさって、家康公と御対面された。
御供に召し連れた輩も御眼前にひかれた。
秀忠公、
「関ヶ原に遅参してしまい、大切の御一戦に参加できず、
御迷惑におぼしめされていることでしょう。」
家康公、
「参陣の時節を申し上げた使者が口上を誤った以上、いたし方のないことであるが、
総じて天下分け目の戦というものは囲碁の勝負と同じことで、碁にさえ勝てば、
相手方に石がいくらあろうが、相手の用にはたたぬものである。
われわれが関ヶ原の一戦に打ち勝つならば、
真田ごときの小身者がいかに城を堅固にしようと、
結局は城を明け渡して降参するよりほかにないのだ。
お前の後ろに控えている者どものうちに、そのように申した者は一人もいなかったのか?」
と尋ねられた。
秀忠公が、
「同じことを、戸田左門(一西)が、申しておりました。」
と仰られたところ、
家康公は、
「なんと申したのだ?」
と重ねてお尋ねになったので、秀忠公は、左門の進言の委細を仰られた。
家康公は、御家人列座の方を御覧なさり、左門を召されたが、
末座にいたため聞こえなかったのか反応がなかった。
そこで秀忠公は、声高に、
「内府公は、左門をお召しだ!」
と仰られると、左門は、すぐ御前近くに出た。
家康公は、おそばに召し寄せ、御両手にお菓子を山盛りにすくい、お手ずからお菓子を賜い、
家康公、
「その方、小身にて口がきけぬか、すぐに口がきくようにしてやろう。」
とおっしゃった。
左門はあまりのありがたさにお礼もいえなかったため、
秀忠公が代わりに、
「左門ですが、けっこうの御意をこうむり、かたじけない幸せに存じております。」
と仰られたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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