関ヶ原直前の慶長5年(1600)7月19日、
三河国池鯉鮒(現・愛知県知立市)において、
水野忠重が加賀井重望に殺害されるという事件が起こる。
これにより「あの」水野勝成が急遽水野家の家督を継ぐことになったりと、
色々な事が起るのだが、
この事件がひき起こした最も大きな混乱は、水野忠重が加賀井重望に殺された酒席に、
堀尾吉晴も同席しており、当初「堀尾吉晴が水野を殺した!」と見られたことである。
水野家から関東の家康に最初に届いた通報も、
「堀尾吉晴による殺害」というものであった。
時に堀尾吉晴の嫡男・忠氏は、徳川秀忠に従い宇都宮にあった。
家康はこの情報に驚き、宇都宮の秀忠のもとに急報した。
仮に堀尾吉晴が徳川家に対し二心を持っていた場合、
息子の忠氏も怪しい、と考えられるからである。
が、この知らせを聞いた秀忠は冷静であった。
彼は使者に、
「堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。
例え承った通りに、堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、
忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。
彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」
と答えた。
やがて関東にも水野殺害の詳しい状況が伝わり、堀尾吉晴の疑いは晴れた。
この時人々、
「中納言殿(秀忠)は、人の心をよく知り召される。」
と感じ入り、また堀尾忠氏も、
後でこれを聞いて忝く思い、後の関ヶ原での前哨戦に於いて大いに働くことと成る。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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