文禄4年5月、徳川家康は、京から江戸へと帰還したが、嫡子・秀忠は京の邸宅で、
その留守をしていた。
この時、太閤秀吉と関白秀次の間に、事が起こった(秀次事件)。
秀次は目前の危険から逃れるために、秀忠を拉致し人質としようと謀り、
早朝、特使を参らせ、朝餉に参るようにと迎えた。
しかし留守居の大久保忠隣は、その謀を察し、土井利勝を始め5,6人に、お供をさせ、
密かに伏見の館へと移動させた。
この時、利勝のすすめにより、竹田路を通らず、
大路を経てつつがなく伏見に到着したという。
伏見に到着した秀忠は、太閤秀吉の元へと渡ると、秀吉は大方ならず喜んで、
「誠に新田殿(家康)の子である。」
と、大いに賞賛した。
これは、父・家康が都を出立する前、秀忠を密かに呼んで、
「私が東に向かった後、必ず太閤と関白の間に事が起こるであろう。
その時お前は必ず、太閤の御方に参るように。」
と言いおいたためであったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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