天正16年(1588)正月3日、
徳川長丸君は駿府を出立し初めて京へと赴かれた。
これは豊臣関白秀吉公の所縁となられて後、
未だ御対面がなかったためである。
長丸君は、この時12歳になられていた。
井伊兵部少輔直政、酒井右兵衛太夫忠世、
内藤弥三郎清成、青山藤七郎忠成が、供奉をした。
13日、都に入られた。
関白からは長束大蔵大輔正家が迎えに出された。
15日、聚楽城に上り御対面があった。
関白秀吉の喜びは大変なものであった。
その後、孝蔵主の案内で後閣へと誘われた。
そこでは秀吉の母である大政所自ら、
長丸君の髪を結い直され、御衣装も新たな物を進められた。
そして長丸君は関白より諱の一字を授けられ、
秀忠と称されることになった。
関白は自ら秀忠公の手を引いて外殿に出られ、井伊直政らを近くに召して言った。
「大納言(家康)には良き子を持たれた。
年頃よりも大人のように見え、大変喜ばしいことである。
このように田舎風を変えて、都ぶりに改めてお返ししよう。
大納言もさぞ待ちかねているだろうから、急ぎ帰国するように。」
そして井伊直政、酒井忠世、内藤清成、青木忠成らにも金や衣服を数多与えられ、
各々暇を賜った。
彼らはまた秀忠公の供奉をし、
17日に京を出立し、25日駿府に帰られた。
2月24日には甲冑始めがあった。
この頃、関白は小田原の北条を征せんがため、関西の大軍を率い、
3月には相模の国まで攻め下り、29日には湯元堂で諸将を集め酒宴を開き、
軍議を行っていた所、
関白は家康公に向かって、
「秀忠を呼んで、この大軍を見せるように。」
と言われたため、しばらくして、ここに招かれた。
大久保新十郎忠常は、この時11歳であったが、一人供奉して参った。
その時、関白は自ら甲冑を取り出し、秀忠公に、
「それを着られ、我が武運にあやかるように。」
と、公の背中を撫でられた、とのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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