信貴山城に立て籠もる☆ | げむおた街道をゆく

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天正五年十月、和州信貴山城攻めがあった。
この城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、

信長公に恨みを含み、本願寺門跡、雑賀の兵を語らい、

大阪を退き信貴山城に立て籠もった。

 

それにはこのような理由があった。

家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、

信長公が家康公に向かって、このように言った。

「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。

彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、

三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて、

永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」

久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。

 

これによって十月、
城介(織田)信忠は、大軍を率い和州に御発進され、

佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の対城を出て河州より向かい、

その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、

城主・森、海老名を討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し、

信貴山城の久秀久通父子を攻めた。

しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛は筒井順慶と相談し、

雑賀の兵であると謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。

そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と追いつ返しつつ挑み戦った所に、

久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、

城門を開いて彼らを引き入れた。

十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。

久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!」

と、言って自殺した。

右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。

 

久秀の悪逆積り、東大寺を焼き、大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、

その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 平蜘蛛の釜、松永久秀

 

 

 

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