後に人々は算段して、
「これ(明智秀満が吉広江の脇差を渡さなかったこと)は、
松永殿(久秀)が、大和信貴山の城で切腹した時、
櫓の下へ付いた佐久間右衛門(信盛)の手勢より、
城内へ呼ばわりかけたのと、ちっとも違わない。」
と、申されたのだという。
その子細は、佐久間右衛門が所存を出されて、
松永殿へ申し付けられた言葉だと聞いている。
「この度の事に及んでは、内々に御秘蔵の平蜘蛛の御釜を、
上様(織田信長)も常々御望みに思し召されておられる故、
御出しになるのがもっともである!
それで滅んでしまっては、あまりに本懐なき次第と存じ奉る!」
以上の通りに松永殿へ告げ知らせたとおぼしく、ややあって城内からの返事があった。
「平蜘蛛の釜と九十九髪の茶入、これは来世まで持って行き、慰みにと存じていた。
そんなところに、安土の御城で信長殿は御自身で御茶を下され、
その時に、『いつまでも御手前の九十九髪の茶入で数寄を致すがよい。』
と、仰せられたのである。
その時に私めは茶室を新しく建て、九十九髪で信長殿に一服申し上げようと存じていたのだ。
しかし、その頃の信長殿は私めを方々に御遣わしになられたので、
その機会もなく打ち過ぎた故、九十九髪を安土の御城で進上したのである。
しかしながら、平蜘蛛の釜と私めの首の二つは信長殿の御目には掛けまいぞ!」
このように返答すると、松永殿は平蜘蛛の釜を微塵粉灰に打ち割り、
その言葉に少しも違わずに首は鉄砲の薬で焼き割り、
平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けたのである。
この九十九髪は、古に九十九石の田地で買い取ったため、その名で呼ばれたと承っている。
信長殿は御秘蔵なされ、御最期の時に本能寺で焼き割れたと、相聞こえ申す事。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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