その時分より、三好一家衆は身構えして、三好殿居城の河内飯盛城は殊の外騒ぐ。
その由を伺って、
河内国の故主・畠山高政はその頃浪人していたのだが、
譜代の士の紀伊国湯川(直光)という者、
根来衆の土橋などという者が兵を催し、
飯盛城へ押し寄せ向かう城を攻め取った。
三好物外軒実休はこれを聞き、
飯盛の後詰として阿波国の軍勢、斎藤、福良などを引き連れ、
馳せ向かって合戦を始めたところ、根来衆の中に屈強の鉄砲の名人がおり、
三好実休を狙って撃ち落とした。
これにより阿波衆は皆敗北する。
松永弾正は、修理太輔(三好長慶)に申し、
「物外軒豊前守殿が御討死なされた上は、謀を巡らせて、
士卒に力を付け申すべきです。」
との由を申す。
三好は聞いて、「万事、汝が計るべし。」
となかなか出張する様子が無いため、
松永は、「この分では三好殿は出られまい。」と、
松永が城を出て、方々の一揆などを招き寄せ後詰の合戦を始めた。
松永は武勇第一の剛者で高政を攻め破り、追い討ちして良き者を討ち取った。
高政は堺へ引き揚げ、湯川は河内の誉田を落とした。
これを松永衆は追い詰めて討ち取り、
根来衆の大将・岩本坊は、大和信貴城のもとで討たれた。
畠山は6千余騎を討たれ、三好は運を開きける。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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