寛永の初年、藤堂高虎は、いささか老衰を感じ、
国務を世子大通公(高次)に託した時のことである。
高虎は立花飛騨守(宗茂)兄弟、佐久間備前守(安政)兄弟、丹羽五郎左衛門(長重)、
脇坂淡路守(安治)、朽木卜斎(元綱)等を招待し、
その席で家の系図、知行の朱印、水牛の兜、金の傘の馬印などを、
取り出して高次に譲渡し、先祖代々、一門末々までの武功の次第を語り聞かせ、
最後に言葉を改めて、このように言った。
「大学(高次)は惣領筋であるから、武勇が私に劣るとは思わない。
しかし現在は静謐の世の中であるので、
そなたは合戦を実地に経験する機会はなかった。
それに付いて申すが、武勇には、稽古という言葉は無い。
ただ、心がけ一つが重要である。
一朝有事の場合に、
『この度は第一の殊勲を』
と考えただけでは、人並みの働きも出来ない。
『今度は一番に討ち死にするのだ。』
と決心してかかってこそ、いささか人に優れた働きは、成るものである。
武勇の心得は、これ以外に無い。」
これを聞いた列席の客人たちは、思わず姿勢を正して傾聴し、
深くその言葉に感服したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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