関ヶ原の合戦の戦功で、宇和島8万石に今治12万石を加増された藤堂高虎であったが、
従弟の藤堂良勝を板島丸串城(宇和島城の旧名)の城代に任じ、
自身は今治へ居を移すと、
慶長7年(1602年)より渡辺勘兵衛を築城奉行、
現地の武士である木山六之丞を普請奉行として、今治城の築城を開始した。
この時、最も苦労したのが石垣づくりのための石材集めと、その搬入であったという。
これに対し藤堂高虎は一計を思いつく。
「石を持ってくれば米と交換する。」
こうお触れを出したことで、人々は船や生竹で編んだ筏に沢山の大石を積んで、
あちこちから築城現場へと持ち込んだ。
高虎はある程度の石が集まったのを見計らうと、
「石はもういらね。捨てるのも構わぬが海中へ捨てられては、
船の航行に邪魔となるから捨てるな。さもなくば持ち帰れ。」
こう命じた。船頭たちは持って帰るに持って帰れず、
仕方なく海岸に石を積み上げ放棄して各々帰っていった。
さて、船頭たちが居なくなったのを見計らった今治築城班は、
さっそく捨てられた石を城づくりに活用し、
彼らの努力と石を運んできた船頭たちの献身もあって、
今治城は着工からわずか2年で完成を見たという。
さて、この逸話であるが福島正則が、
慶長7年(1603)年から築城を開始した、
海に面する今治城と似た構造の広島の小方城(亀居城)にも全く同じ逸話がある。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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