藤堂高虎は、関ヶ原合戦後の新領地伊予国の板島城工事のあと、
近江粟津に新しい城の築城(膳所城)と、
伏見城修築および石垣築造を命ぜられた。
さらに並行して、今治に自身の城も築城していった。
さて、それがようやく竣工なったところで、
江戸城修築の縄張りを命ぜられた高虎は、即座にこれを断った。
命じたのは徳川家康である。
「天下の大都城でございますれば、
方角その他よくわきまえた軍法者にお命じになったらよろしかろう。」
再三にわたって固辞したが、家康は聞き入れない。
「佐渡守。よく聞け。城の縄張りに必要なのは、
攻められて持ちこたえ、
攻めるに苦労した要害の地を、よく知っている、
そなたのような老功者の技術である。
よいな。辞退してはならない。」
観念した高虎は、大体の絵図ができるとその都度家康を伺った。
家康自らが筆を取って御朱を引いて修正すると、
その後、将軍秀忠に絵図を見せて説明し、承認を得た。
こうして空堀、石垣などをことごとく完成させていったのであった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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