慶長五年(1600〉6月6日、徳川家康は上杉景勝に謀反の企てありとし、
大阪城西の丸に諸将を招集し、この討伐を宣言。
発向を16日として参加する将の署名を求めた。
そして署名した者を再び西の丸に集め、『6月21日出陣』と発表をした。
さて、この命令を皆が承り退出するとき、山内一豊が藤堂高虎に囁きかけた。
「今度の上杉征伐だが、奉行達が連署で、
少なくとも年があけるまで引き伸ばすべきだと諌めたのに、
徳川殿はそれをお聞きになられなかった。
どうして奉行達を無視したのだろう?」
高虎これに答える。
「徳川殿が奉行の提言を無視したのは、ご深慮があるため、だと思う。」
「ご深慮?」
「先ず第一に、国に叛臣がある時は素早く兵を出して、
敵の準備が未だ整わないうちにこれを討つものだと、
これは昔から言われていることだ。
第二に、反乱者の退治が遅くなれば、相手に城の備えを堅固にし兵を多く集め、
兵糧を備蓄する余裕を与えてしまう。
そうなってしまえばこれを攻めても非常に時間がかかることになる。
まして年明けまで待つなどということをしたら、
相手に万全の備えをさせてしまうだろう。
第三に、連署を出した奉行連中の中に、景勝と親しい者が多い。
このため徳川殿は、さてはわざと上杉討伐を引き延させて、
景勝に籠城の準備をする余裕を与えようとしているのだ、
と察したのかもしれないな。
第四に、景勝が謀反を起こしたのには、彼に同調する勢力があるためだと考えるべきだろう。
これは時間が立てば立つほど多くなるに違いない。
しかしその勢力が未だ少ないうちに討伐すれば、
同類の輩は動きを自重し大人しくするだろう、と考えられたか。
そして今回、再び諸将を集めて軍議を行われたのは、
その中に景勝への同調者がいれば、そいつはきっと
軍の出動の遅延を申し立てるであろうし、
そうでなくても顔色や雰囲気からそれが見えてくるものだ。
このようにして徳川殿は敵味方をざっと判断して、
その上での計策があるためであると、拙者は考える。」
「なるほど…。所で前の軍議の時堀監物が、
『会津の背灸と言う場所は大変な難所なので充分に気をつけなければならない。』
と言ったのを、徳川殿は気に入られない様子であった。
あれはどういう事であろうか?」
「ははは、説明するほどの事でもないさ。
背灸と言えば奥州第一の険阻であり、一人動けなくなるとそれに続く万人が進めなくなる。
そんな事は、みんな知っている話だ。
だから、みんなそれを見ないうちから心を重くしているのに、
実際に現地を案内する堀兄弟が『切所です!難所です!大変なんです!』
なんて言ったせいで、
あの時の座の面々の顔を覚えているか?みんな青くなってた。
徳川殿はそれを悟って、勇を励ますために、
堀を叱り飛ばしたのさ。良将の知恵という奴だな。
かつて故太閤が徳川殿のことを『あいつは軍慮の知識だ』なんておっしゃっていたが、
あれはこの事なのだな、と思ったよ。」
「ふむ。そう言う事か。
…ところで佐渡守(高虎)、徳川殿は、天下を取るか?」
高虎たちまち笑い出し、
「おいおい、壁に耳ありというではないか。
そんなことを話していたと聞かれたら、どう噂されるかわかったものではないぞ?
だがな、」
高虎、一豊の傍で小さく囁いた。
「みんなそう思っているだろ?」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!