家康警護☆ | げむおた街道をゆく

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慶長4年(1599)、伏見より、前田利家様を御見舞するため、

徳川家康公が大阪の藤堂家御屋敷へ、お入りになったのは、

夕方の七つ時(午後4時頃)でした。

藤堂高虎様は御門の外一町ばかり先に、お迎えに出られていました。
この時、新七郎殿(藤堂良勝)、仁右衛門殿(藤堂高刑)も高虎様のお供をされていました。

高虎様は御腹巻に小手を着け、茜色の木綿の御紋付きの胴服に、

革の御立付を召されておりました。

それから屋敷にお入りに成って、ご密談をされている間に、明かりを灯しました。
そのうちに、加藤殿、福島殿をはじめとして、追々大名衆が御出になりました。

家康公のお供である重臣の方々を始め、大勢が入られたため、

御屋敷の中は混雑で通ることも出来ないほどでした。
しかし挑燈(ちょうちん)によって御屋敷内は昼のように明るく、

大阪城辺りからは、
まるで火事のように見えたということです。

この時、御膳が出されましたが、献立は荒昆布の煮物、鯛の焼き物、

イワシの辛子和え、香の物、というものでした。

御汁については失念いたしました。
家康公の重臣の方々や、諸大名にもこの御膳が出されました。
その他の人々には、兵糧食が出されました。

高虎様は夜中も、御屋敷の内外を見回られました。
御屋敷の中は、御出でになった大名衆が増え続けたため、外に溢れ出すほどでした。
藤堂家の御家中は、夜を徹して御門の外、4,5町の間を固めていました。

夜が明けると、家康公は御屋敷を出立されました。

その夜は、大阪の五奉行が家康公に対し夜討を仕掛けるべしとの評議を行ったそうですが、
藤堂家の御屋敷に大勢が詰め、厳しく用心している事が伝わったため、

それを中止したのだと、後日承りました。

高虎様もこの時は、
「今夜は最大限の警戒をしなければならない。家中の者達も、必死の覚悟で警護せよ。」
と仰せに成りました。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 下天を謀る・異聞、藤堂高虎

 

 

 

ごきげんよう!