高虎と歌☆ | げむおた街道をゆく

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文禄年中に、大和中納言殿(豊臣秀保)が死去(文禄4年(1595)4月16日)後、
藤堂高虎は発心し、出家して高野山へと登った。

登山の途中、高虎は、
『おのが音に つらき別れの有とだに 思ひもしらで 鳥やなくらん』
との古歌を口ずさんだ。

 

また、
『旅衣 紀の路の末の哀れさに いたると鳥の音にやなくらん』
と口ずさみ、従う家臣に、
「どうだ吉太夫、聞いてくれ。私のごとき身の上には、

これまでこの様な歌の教養などいらぬ事であったのだが、

これから芋掘り坊主になってしまえば、

このようなものを口ずさむようになるであろうよ。」
と、戯れに語った。

高野山では高室院に落ち着いたが、院主より、
「ここまで登られてお疲れでしょうから、どうぞ休息されて下さい。
これを食べて、御気晴らしをなさって下さい。」
と、饅頭菓子を5つ持ってきた。高虎は、
「さてさて、有難いことです。この新米坊主、随分と御奉公いたしますぞ!」
と笑いながら饅頭を3つ食べ、2つは吉太夫に与えた。
 

この高野への在山中に高虎の詠んだ歌が、
『身の上を 思へばくやし罪科(つみとが)の ひとつふたつにあらぬ悲しさ』

やがて豊臣秀吉の命により高野山を下山することと成ったが、その時に詠んだ歌が、
『帰るさの 道に迷わぬ燈し火も 浮世の闇をてらすばかりに』

その後、伊予宇和島において7万国を拝領した。
藤堂高虎は、高野山を下りた後は、その一代のうち、歌を詠むことは勿論、
歌の話すらしなかった。
外でそう言う話が出た時も、「私は至って武骨者ですから。」とのみ言っていた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 下天を謀る・異聞、藤堂高虎

 

 

 

ごきげんよう!