天正18年の、豊臣秀吉による、北条征伐の時のことである。
秀吉は軍勢を東海道に集結させていた。
しかし、この時出された動員令は、主に秀吉の旗本や直属の大名に向けたもので、
その他への指令は書かれていなかったという。
さて、この北条との戦争に対し、安芸の毛利家はこのように考えた。
「我々も大大名であり、秀吉公は家康卿を動員している以上、
次には輝元様を動員されるに違いない。
軍勢を登らせておくべきである。」
この判断により、毛利家は輝元を先に上洛させ、順次京に軍勢を登らせた。
ところが輝元に対し秀吉は、
「よくぞ上洛なさった。この聚楽を輝元に預ける。
秀吉が出陣している間、天下の仕置はここで、
天下殿(秀次)と輝元とで行うが良い。」
と言い、当時の天下の政調というべき聚楽を輝元に預け、
さらに重要拠点である尾張の清洲城は小早川隆景に、
三河の岡崎城は吉川広家に任せた、という。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!