慶長5(1600)年9月13日の昼過ぎ、直江兼続は畑谷城を落とした。
挙げた首級は500余り。
味方の死者は200余り、負傷者は数百ほどと、
寡兵の城を落とすには、被害は少なくはなかった。
直江軍の支隊の中条三盛・吉岡家能・土橋惟貞らは、
付近の鳥屋ヶ森城・左沢城・山野辺城・八ツ沼城を攻撃。
山野辺城は明け逃げ策が取られていたが、
左沢城には最上方に与する地元の国人が百姓らと立て篭もり、
上杉軍相手に気勢を上げていた。
しかし上杉軍の侵攻の早さに、八ツ沼城では、
山形城に入っていた城主・和田正盛の代わりに、
留守を任されていた望月隼人らが、
撤退の期を失い、衆寡敵せず自刃して果てた。
最上義光は、畑谷城の江口道連をどうにか連れ戻す様に、
飯田播磨(信兼)と谷柏相模(直家)を畑谷への救援へと派遣したが、
すでに城は攻め落とされていた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!