慶長5(1600)6月、上杉景勝は大坂から国許の会津に下り、
内府家康を討つために近隣の諸大名に、一味同心を求め使者を遣わしていた。
仙台正宗(伊達政宗)からは「由(よし)なに。」と返事があり、
中山北の山形義光(最上義光)からも「今しばしお待ちください。」と、
宝物を伴った使いが会津を訪れた。
上杉方では之を伊達と最上はややも同心したものとの返事ととって心を許していたところに、
近国の諸大名が米沢口より会津攻めに最上を大将として山形に馳せ集まったと伝え聞き、
さては謀れたかと大に怒り、さっそく家臣たちを召し集めた。
「義光は時間稼ぎをして我等上杉を騙した。
これは非常に許し難い事である。
要所を堅め篭城すべきか、またはこちらから攻め立てるべきか。」
そこに上方からの知らせが入り、
「関西の諸大名が大坂で挙兵し、伏見・大津の城を攻め落とし、
猛威を振るっているばかりか、
山形に集まっていた北国の兵も自国での一揆の騒ぎに退散してしまっている。」
といった話も伝えられて来た。
「これぞ天佑。義と天は味方にあり。
義光を早々に退治し、酒田と永井(長井。置賜地方)を分断する、
後顧の憂い(山形の最上領)を取り除くべし。」
と評は決し、
直江兼続・春日元忠・上泉主水・水原親憲を先駆けとして、最上攻めが決定された。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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