慶長5年(1600)7月25日、上杉征伐に出向した家康は、
上方での石田三成による反乱を聞き、
その日、小山会議によって西進を決断。
結城秀康を大将とした押さえの軍勢を下野国に置き、
自らは江戸へと戻った。
さて、これを聞いて俄然勢いづいたのが上杉家重臣・直江兼続である。
彼は景勝に進言する。
「かねてよりの約束通り三成は軍を起こし、彼らはまもなく、
あの遠征軍を滅ぼすため東方へと進軍するでしょう。
であれば君もこの動きに乗って家康殿を追いかけ攻め上り、
東進する上方勢と共に挟み撃ちにすれば、
これを討ち漏らす事、よもやございません!」
兼続には必勝の形がはっきりと見えていた、のであろう。が、景勝。
「私が今回兵を上げたのは、世間には石田に一味したように見られるかもしれないが、
全て秀頼公への御奉公のためである。
自分が謀反人と呼ばれたのは、神指の新城の事と上洛しなかったこと、
この二つが理由である。
これ故に徳川殿は軍勢を進めた。
弓矢を取る身の習いであれば、当然これと一戦しなければならない。
が、徳川家が我らを構わないと言うのであれば、
私は他の五大老、三中老、五奉行らと、
故太閤に対し連判の宣紙を交わした身の上であり、少しの異心も持ってはいない。
であるにも関わらず、この景勝から押し出し攻め上がるようでは、
太閤に差し上げた宣紙を破ることになり、天下騒動の手出し者となってしまう!
それだけは、私は許可しない!
よいか!?会津の国境、白坂より外には上杉の旗一本たりとも出してはならぬ!」
そう、固く下知した。
これには直江兼続も、ただただ呆れるのみで景勝を諌めることも出来なかったと言う。
景勝、名分のため去る家康を追わず。と言うお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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