慶長五年(1600)、家康による会津征伐が迫る上杉家。
上杉景勝は、会津防衛に関する指令を出した。
「領内の各城に多くの兵をこもらせよ!
特に敵の最初の目標である白河城には、
大軍を籠らせ上方勢からの防衛に当たれ!
白河城に敵が襲来すればこの景勝自信が兵を率いて長沼方面に出陣する!
その時の人数は義父謙信の例に習い八千とする。
それ以上は必要ないので防衛に回せ!」
これを聞いて、直江兼続と足軽大将の水原親憲は揃って景勝を諌めた。
「謙信公の頃はたしかにそのように決まっておりました。
しかしあの時と今とでは、”時”と”人”が違っております。
先ず”時”とは、
あの当時我ら上杉家は織田、武田、北条などと度々合戦をし、
また椎名、神保などとも戦っていました。
しかし至る所で戦が起こっていたため、敵も防衛のためその勢力を各地に分散しており、
我々との戦いに出す戦力も又、決して多くはありませんでした。
これによって謙信公は、八千で充分だとして、その兵を用いられていたのです。
しかし今度は、日本中の敵兵が押し寄せてくる戦であります。
味方は少なく、敵は大軍。
これが”時”の相違です。
そして”人”とは、
今の上杉家には、謙信公当時のものに馴れた諸大将はその大半がすでに亡くなっています。
士卒も合戦に経験のあるものは多くが居なくなりました。
軍の中は戦の経験の無いものが、その殆どを占めているのです。
これが”人”の相違です。
そのようであれば、僅かの数の味方が敵の大軍を見れば、必ず臆してしまうでしょう。」
この諫言により景勝本隊は、本陣の八千の他に、各地の守備兵を削り、
後陣として3万を備えさせたと言う。
関ヶ原当時既に、上杉家ですら合戦を経験した人材の不足が起こっていたらしい。と言うお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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