新発田因幡守治長(重家)、同道如斎、同源太治時、五十公野采女が申し合わせ、
天正十年の春より、織田信長に内通し、
「信長公が品濃口、越中口より攻め入られた時は、会津の蘆名盛隆と共に、
下越後より攻め上がり、景勝を攻め滅ぼすべし。」
と謀を定めたのだが、その年、信長公生害となり、
想定は崩れ、上杉景勝は軍勢を差し向け新発田を攻めた。
度々の合戦が有ったが、勝負はまちまちであった。
 
これは蘆名盛隆より密かに兵糧、玉薬を運送し、新発田に合力あった故で、
彼らは六年の間持ちこたえた。
会津の越後境の津川城に、金上兵庫が居住しており、金上方より、
赤谷城の小田切三河守方を絆ぎの城として、
蘆名が新発田に加勢していることを景勝は察し、
天正十五年の秋に、新発田表を踏み越えて赤谷城を攻め落とし、
小田切三河守をはじめ八百余人を討ち果たし、会津からの合力の通路を遮断し、
直ぐに新発田城へ景勝が向かうと発表した。
新発田も、これで最期であると覚悟したが、
家人の羽多野忠右衛門という大力の剛の者が申し上げた。
「もはや合戦では叶いません。しかし赤谷表より新発田までの道筋に、
三淵という大切所があります。
そこで待ち伏せをして、景勝が一騎打ちに通られるのを引き掴んで、
下の崖より大河の淵に落ちて共に死んで、主の本意を達します!」
このことは議定され、彼は三淵に出て、景勝が来るのを待ち受けた。
三淵という切所は、山腹の切通で、馬も一騎でしか通れない路であった。
上は青山がそびえて苔むし、
路より下は数千丈の石岩が剣のごとく、屏風を立てたる如く、
さらにその下は大河がみなぎり流れる淵であった。
その道端に岩穴が有り、羽多野忠右衛門はそこに隠れて、
景勝が通りかかったところを躍り出て引き掴み、
景勝とともに崖の下の淵に飛び墜ち、ともに死せんと企んだ。
この時、景勝は赤谷を立ち、新発田に推し進もうとしていた。
家臣たちは、
「直路であり、殊に近道となるのだから、三淵の方に進まれるだろう。」
と皆申していた所、
景勝は思案して、
「大将は危うき所を行かないものだ。近道だからと言って切所を行けば、
どうしても越度が有ること多い。
迂を以て直とし、患を以て利とする事、兵法用捨の大事である。
廻り道であっても、足場の良い方を進もう。」
として、迂回して本道を進んだことで、三淵を通ることはなかった。
故に羽多野の計画も相違して、本意を失った。
景勝の知慮は、凡人の及ぶところではない。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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