景勝公も、御上洛然るべし☆ | げむおた街道をゆく

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秀吉公は、去年(天正十三年)、越中より落水までお越しになり、

上杉景勝公と会見された。
 

その後も秀吉公より、浅からず御心入あり、御和平の状態であるから、

景勝公も御上洛然るべしと、
宿老衆が申し上げると、「尤もである。」と思し召され、

御上洛あるべき旨を、先立って仰せ入れられると、秀吉公は悦ばれた。

天正十四年四月下旬、秀吉公より御礼のため、

また木村弥一右衛門(吉清)を差し越された。

この時も品々御音物があった。

同五月十一日、景勝公は春日山を出発された、

御供の人数、僅か五千足らずを召し連れられた。
これには御底意があった。

木村弥一右衛門も御供した。

 

秀吉公よりの、道中の御馳走は、

一、越中は木村が請け取って、越後衆上下を賄い仕った。

観世太夫、今春太夫を連れ、御宿ごとに、隔日に能を仕った。

(尾山に於いては城主の前田又左衛門(利家)饗応)
 

二、加賀まで、石田治部少輔(三成)が御使に来た。
 

三、越前までは、増田右衛門尉(長盛)が御使に来た。
付・北ノ庄にては堀久太郎(秀政)饗応、

府中は木村常陸介(重茲)、

敦賀は大谷刑部太夫(吉継)饗応
 

四、近江でも大谷は諸事御馳走した。その中でも大溝では、その城主が饗応した。

五月二十七日、洛陽(京都)本圀寺にお着きになり、

その夜、秀吉公が忍んでお出でになった。
御礼の御盃を出すと、秀吉公は頻りに御辞退あったが、

景勝公の御盃を戴き、直江(兼続)に御盃を下され、
その盃を無理に取り上げて召し上がられた。

 

その他の衆をも召し出され、御盃を下された。
明日、聚楽に景勝公が御出になることを御約束された。

そして今夜、景勝の旅館に秀吉公が忍んで来られた事について、

口外しないようにと仰せ合わされ、御帰りの時、御次の庇門に、

梅津宗賢が伺候していたのを御覧になると

「これは川中島合戦の時、武田典厩(信繁)を討ったと聞く梅津宗賢であろう。」

と言って銚子を乞い、御盃を下された。
諸人、これを不思議に思った。かの梅津は譜代の士であり、他国へ行ったこともなく、

秀吉公が見覚えているはずがないと、様々に沙汰されたのだが、

これについて藤田能登守(信吉)が、
南詰宮圍に申し聞かせた事には、

「秀吉公は、越後衆入洛の様子を御見物されるため、粟田口の町に御出になったと聞く。
上方には関東、北国の者も多くある。

この方面を見知った者を御側に於いて、尋ね問うて見置かれたのであろう。

私の推量ではあるが、恐らく間違っていないはずだ。
奇妙不思議などというものは無い。

理の本を吟味し、我心に落として、他のことを計るべきである。

秀吉公のこの事は、名誉であるとは言えない。

そういった御志があるのを感じ、御大将の器に応じていると誉める事こそ、正道である。」

と申された。

景勝公の在京中、秀吉公より御賄として木村弥一右衛門を付け置かれ、御馳走された。

そして秀吉公の御指図にて、景勝公は宰相に任じられ、

直江は四品に叙し、藤田、安田を初め七人が五位に叙し、七月に御帰国された。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 不識庵以来の軍法、上杉景勝

 

 

 

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