天正18年の秀吉による小田原征伐、ついで奥州平定、
天正19年の陸奥征伐、九戸政実族誅の後には、海内初めて一統し、人心もやや安定した。
そのため天正19年10月、上杉景勝は覚書七箇条を発布して、
地頭の正邪はただちに農民に反映するものなので、
いささかも怠慢があってはならないと論示し、
苛斂誅求、徴税吏の粗暴を戒め、常に忠孝貞節の道を教訓させた。
また百姓は国の宝として務めて寛政を行うべきであるも、
いやしくも土地に関して不法を申し募るようなら、
斬に処するも差し支えなしとした。
およそ訟事は決して片言をもって獄を断じ、または依怙の沙汰があってはならないと、
上杉氏の治民方針を示した。
一、地頭の正邪により、百姓は善悪に移るものである。いささかたりとも油断あるまじき事。
一、年貢諸掛かり等は、なるべく勘弁いたして、悪作の年は前年より小分たるべき事。
一、何事も古法を守り、利欲のために新法を立てて、百姓を苦しませ申すまじき事。
一、忠孝の道理を常々教訓いたすべき事。女たちへは貞節の道理が自ずから分かるよう、
肝要にする事。
一、年貢諸の等を取り集めに行かせた役人たちが、
百姓へ対して粗暴の事がないように申し付ける事。
一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。
一、訴訟は双方共によくよく聞糺して沙汰するように。必ず依怙贔屓いたすまじき事。
右の条々を堅く守り申すように。以上。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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