おおよそ関ヶ原の軍は、天下分け目の大合戦にて、
徳川家の存亡、天下の安危、ただこの一挙にあった。
東方は良将兵を掌り、属する所の猛将多しといえども少勢であった。
西方は総大将無くして、治部少輔が兵権を司るといえども大勢にて、
その上太閤の薨去近ければ、秀頼のために忠を成さんと思う者も多く、
殊に、もろこしまで武名を顕した島津、小西、その他猛将また多し。
その上筑前中納言(小早川秀秋)は大軍にて、
その家臣たちは皆、小早川隆景が平生教練した屈強の兵達であった。
この小早川秀秋が、いまだ裏切り無いうちに、戦いは既に半ばに及ばんとした時、
敵の旗色良く、勇み進んでいた。
この時、もし秀秋が裏切らず松尾山より素早く下りて、
敵とともに味方を防げば、おそらくは勝負がどうなったかわからない。
また、もし敵がこの一戦に負けたとしても、
秀秋の裏切りがなければあれほどの惨敗はせず、
敵の諸大将暫く弾き退いて、宇治、瀬田の橋を引いて防ぎ戦えば、敵は大軍であったから、
寿永、承久で東兵が利を得たようにはならず、勝敗もまた心もとない。
また、南宮山の敵、吉川らが内応無く、素早く攻撃にでて、
関ヶ原で横合いにかかってくれば、
両方の敵を防ぐことは難しかったであろう。
であれば、筑前中納言、並びに毛利家の返り忠は、内府公天下万世を保たれた枢機であり、
これは黒田長政一人の謀を以って、敵の大群を味方に引き入れ、返り忠をさせて、
斯くの如く莫大の忠功を立てられたのだ。
また、長政が竹中丹波守と言い合わせ、間道を経て敵陣の横合いに出、
奇兵を以って島左近の堅陣を破り、
直に石田の本陣に攻め入られた故に、一戦に東兵勝利を得た。
これらは真に希代の勤労と言うべきである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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