これは黒田長政一人の謀を以って☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

おおよそ関ヶ原の軍は、天下分け目の大合戦にて、

徳川家の存亡、天下の安危、ただこの一挙にあった。

東方は良将兵を掌り、属する所の猛将多しといえども少勢であった。
西方は総大将無くして、治部少輔が兵権を司るといえども大勢にて、

その上太閤の薨去近ければ、秀頼のために忠を成さんと思う者も多く、

殊に、もろこしまで武名を顕した島津、小西、その他猛将また多し。
 

その上筑前中納言(小早川秀秋)は大軍にて、

その家臣たちは皆、小早川隆景が平生教練した屈強の兵達であった。

この小早川秀秋が、いまだ裏切り無いうちに、戦いは既に半ばに及ばんとした時、
敵の旗色良く、勇み進んでいた。

 

この時、もし秀秋が裏切らず松尾山より素早く下りて、

敵とともに味方を防げば、おそらくは勝負がどうなったかわからない。

また、もし敵がこの一戦に負けたとしても、
秀秋の裏切りがなければあれほどの惨敗はせず、

敵の諸大将暫く弾き退いて、宇治、瀬田の橋を引いて防ぎ戦えば、敵は大軍であったから、

寿永、承久で東兵が利を得たようにはならず、勝敗もまた心もとない。

また、南宮山の敵、吉川らが内応無く、素早く攻撃にでて、

関ヶ原で横合いにかかってくれば、
両方の敵を防ぐことは難しかったであろう。

であれば、筑前中納言、並びに毛利家の返り忠は、内府公天下万世を保たれた枢機であり、
これは黒田長政一人の謀を以って、敵の大群を味方に引き入れ、返り忠をさせて、

斯くの如く莫大の忠功を立てられたのだ。

また、長政が竹中丹波守と言い合わせ、間道を経て敵陣の横合いに出、

奇兵を以って島左近の堅陣を破り、

直に石田の本陣に攻め入られた故に、一戦に東兵勝利を得た。
これらは真に希代の勤労と言うべきである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 関ヶ原の功労者、黒田長政

 

 

 

ごきげんよう!