城井中務(鎮房)、来たる☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

天正16年正月20日、黒田孝高(官兵衛)は、

豊臣秀吉より、浅野長政、加藤清正、小西行長ら2万の兵と共に、
肥後国人一揆に苦しむ佐々成政の元へ、

援軍として向かうことを命ぜられ、2月に肥後へと向かった。

この時、城井中務(鎮房)は、最前まで敵となっており、

その上所々に放火し、乱暴狼藉をした存在であったため、

そのままに差し置き難い存在であった。
 

彼は一旦の難を逃れるために降参したと言っても、

城井谷の城から澤田の邸宅まで、

猶も要害を構え、野心を秘めているとの噂も聞こえていた。

必ず国の仇と成るべき者であった。
 

黒田孝高は出陣にあたり、城井に対して、必ず油断無いよう言い置いて出発した。

ところが、孝高が出発したあと、城井中務は案内もなく、

手勢200ばかり連れて、黒田長政への一礼の為と言って、

不意に中津城へとやって来たのである。

長政はこれを聞いて、

「誠に一礼のためなら、父子同じく在城の時、日限をうかがった上で、
小勢にて参上すべきであるのに、案内もなく俄に押しかけ来ること、

ますます無礼の至である!
もし見目の時に至って、猶も無礼の体であれば即座に誅殺すべし!」

そう決定した。

その時、中津城内に居合わせていたのは、

武士17人、足軽中元もようやく100人程度であった。

さて、この日の城井への酌をするのに、吉田又助が出ることを命ぜられた。
「いよいよ城井を誅する時は、盃をさした時、肴を乞う。

その時に、後藤太郎助(後藤又兵衛長男)が肴を持ち出て、一の太刀を打つ。

私(長政)は二の太刀を打つ。」

と定められた。

吉田又助はこの時17歳であったが、長政に申し上げた。
「今日の酌を仰せ付けられたこと、誠に身の面目と存じます。

しかし私は今年、日向での合戦の折、
左の膝口を斬られ、命はようやく助かりましたが、

陣中でもあったので血を止める暇もなく、
多量に出血したため、体力が弱ってしまいました。

いまは少々歩行が出来るほどに回復しましたが、なおも足腰弱く、

手の力も未だに戻っていません。
大事のご奉公を辞退するのは残念ですが、

もし御用に立たなければ御為悪しき事になります。
ですので、体の達者なものに、仰せ付けられるのが然るべきかと存じます。」

長政は、これを聞いたが、
「お前が未だ、体力が戻っていないこと、良くわかっている。

しかし今日の酌に、手足のつよきことは、さほど要らぬ。

ただ、冷静で動揺しないことが必要なのだ。
酌はお前がするように。」

そう仰せ下したため、又助も重ねて辞退には及ばなかった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 関ヶ原の功労者、黒田長政

 

 

 

ごきげんよう!