小倉城主になった忠興は、小倉城を築城するにあたり、
当時主流になりつつある打ち込みハギ(加工石使用)ではなく、
野面積み(自然石使用)を多用した。
理由は、
「石を加工するのは誰でもできるが、美しく大きい石を集めさせることは、
権力者にしかできない。」
から。
利休七哲と言われるだけあって、変なところに価値観を見出したらしい。
さて小倉城築城のため石集めに励む忠興。
大谷で巨岩を見つけて家来に引かせていたのだが、
あまりの重さに途中で動かなくなってしまった。
そこで忠興、いつも通りカッとなって責任者の首を刎ねる。
恐れをなした足軽衆は必死になって石を運び、無事、小倉城まで運び込んだ。
その後、細川氏が熊本へ移ってから、
小倉城主となった小笠原氏の4代・小笠原忠総がこれを聞き、
「俺なら動かなくなった時点で二つに割った。それなら死人が出なくて済んだものを。」
と嘆いたという。
これを2人の性格の違いを示すものとして、
「細川の大石、小笠原の割石」
と呼ぶ。
その石は今も小倉城内、八坂神社の前に残っている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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