小野木の首を見るまでは☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原表は、家康公の御利運と成ったため、

諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
 

この時、細川越中守(忠興)が、権現様に申し上げた。

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、

通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て、
まかり通るべきと考えます。」
(注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた。)

家康公も、

「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」

と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、

その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。

その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した大河の内に堀を掘り、

この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
 

然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、

細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。

これゆえ若干の人数が溺死した。

後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、

忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が、馳せ来て両者の扱いに入ったため、

小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
 

ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、

亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせたという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 激情の人、細川忠興

 

 

 

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