初陣の嗣子・忠隆☆ | げむおた街道をゆく

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関ヶ原の折、
初陣の嗣子・忠隆には、大阪の細川屋敷からこまごまとした心得を、
早々送っておいた。
 

丹後田邉に父幽斎は捨て置いたままでよい、心おきなく出立する旨であった。
憎き大坂方奉行どもが大勢にして、田邉城に攻め寄せようとも、
武勇に優れた父幽斎であるからして、

老いた皺腹を切るだけであり、一向に苦しくないと。

祖父幽斎と僅かな留守番のみを残し、

後ろ髪をひかれつつ、細川忠隆は三千五百の兵を率いて、丹後を出立した。
 

途中若狭小浜の大谷口に差し掛かった。
この地の領主、木下勝俊は家康方に属するも去就の未だ定かではなく、
この時分大阪に在り不在であった。
木下勝俊の家老らは、無用な紛糾を避けるべく、細川家に、
小浜城下の通過を遠慮願う旨を申し送ってきた。

このため細川忠隆の軍は城下を避け、狭隘な山沿いの道へと迂回することとなった。

ところが殿を務めた武者に沢村才八というものがあり、

これを不面目、面白からずとした。
独断にて数騎を従え小浜城を仰ぎ見つつ、

城下の端から端までこれ見よがしに駆け抜け、
先回りをして主人忠隆を待ち受けたのであった。

この経緯を近江で聞いた細川忠興、何故城下を通過しなかったのか、

勇ある将にあるまじき、
と息子忠隆を激しく叱責すること甚だしかったため、忠隆も反発。

この後親子の間は険悪となってしまった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 激情の人、細川忠興

 

 

 

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