7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、
向こうから来た者が下馬した。
「誰の御衆で候か。乗り通られよ。」
と御使者を遣わされたところ、
「小出大和守吉政より、家康公へ使者に下り申した。
その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと、
吉政が申し付けました。」
とその者は申した。
「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの術ではないか。」
と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と、
常に睦まじい間柄であったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。
興元主は在家に入ってその者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。
さてその口上は、
「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。
御城中への御用がありましたら大和守の手へ人を御遣しください。
通路を用意仕ります。
また大坂の御屋敷は、7月17日戌の刻ほどに、火にかかり、
御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。
忠隆公(細川忠隆)の御奥様は、乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、
前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入りになったのを見申した。」
とのことだった。
これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を感じ、各々落涙された。
忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、
「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」
と、ますます恨み深く思し召されたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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