仔細が有り、丹波路を行く☆ | げむおた街道をゆく

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慶長五年、奥州会津の城主・長尾景勝御討伐の時、

細川越中守忠興は、家康公の御味方にて宮津より出陣された。
 

父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。

こうして忠興は、雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。」

この折に、御暇乞い申さんと、田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。

幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。

忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。

ここに、若州熊川には、近年関所が有るのだが、

ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、

熊川の関所をいよいよ堅固にして、

往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した。

「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」

そうして吉坂より取って返し、丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された。

「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃、世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、

仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、

丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。

また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、

勅命とは言いながら、今少し永らえずして、
幽斎が城を渡して、京都に上ったことを、忠興も悦ばなかった。

こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、

後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、

一日に二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 激情の人、細川忠興

 

 

 

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