七将襲撃事件の模様☆ | げむおた街道をゆく

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慶長4年(1599)閏3月3日、大納言・前田利家が死去すると、これまでの政治的混乱は、

石田治部少輔三成のせいだと、反三成派の武将たちが決起し彼を襲撃する、

いわゆる”七将襲撃事件”が起こる。

この時三成は大阪にあったが、襲撃を避け宇喜多秀家の屋敷に逃げ込んだ。
この宇喜多屋敷は前田利長の屋敷の隣であったため、

利長の屋敷に、七将は詰めかけ攻め懸る準備を進めた。
 

三成はこれに気付くと、女乗物で密かに宇喜多屋敷を出、

摂津から京に向かい、伏見の自分の屋敷に入り、ここに立て籠った。

この三成の屋敷は伏見城の西の丸近くにあり、その上城同然の要害であったため、

七将は思うように手が出せず、ためらいが広がった。

しかも三成は、今度は自身の手勢を手分けさせて、

逆に伏見の七将の屋敷に襲撃をかける姿勢を見せたため、
七将は銘々に、自身の屋敷の防御を固めた。

この時、細川忠興の伏見屋敷は低地に有ったため、内側より堀に詰め橋をかけて、

寄せ手が来るのを待ち構えていた。

 

すると加藤清正より使いが来て、
『あなたの御屋敷は防衛に向かない低地にあります。
しかし京橋は要害の良い地であるので、あなたが京橋に立て籠って頂ければ、

あのあたりは私と黒田殿、そして細川殿の3人で固めることと成り、

これならばどれほどの軍勢で攻め懸けられてもビクともしません。

急ぎ京橋に立て籠って下さい。』
そう伝えてきた。

 

しかし忠興は、
「三成の軍勢が仕掛けて来ると言われていますが、私はまだ状況も確認していません。
状況を確認した上で、ここで我々が戦うのは無理だと判断される時は、

そちらに後退いたします。」
との返事をした。

さて、この様に忠興の屋敷に三成の手の者が襲撃をかけると沙汰される中、

この忠興の屋敷の裏方は、森忠政の屋敷であったが、

忠政は忠興を屋敷に訪ね、
「私とあなたは、信長様の時代からこの方、2代にわたる朋輩であります。

その上、屋敷も裏合いであり、
深い縁があります。ですのでどうか、お互いに相談し合い、一緒に戦いましょう。」

そう協力を申し出、森家の人数で細川屋敷の周りを固めさせた。
さらに忠興に親しい金森和泉守殿、平野遠江殿、氏家志摩殿、

津田興庵といった人々も駆けつけたが、細川屋敷が狭く収容出来なかったらめ、

忠政が自分の屋敷に詰めさせた。
これは隼人左馬之充が後に語ったことである。

このような中、徳川家康が事態の収集に乗り出し、
「治部少輔が政治に関わっているため、あなた方はそのようにお腹立ちになっている。
彼を佐和山に逼塞させよう。これで腹立ちを収めて貰いたい。」

と七将に伝えると、
「治部少はお為悪しき人物です!」
とあちらこちらから声が上がったものの、最終的には、

「内府公の御分別次第」

と纏まり、こうして三成は佐和山に引退した。

これによって、大阪伏見の情勢も静まったのである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 激情の人、細川忠興

 

 

 

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