細川忠興は、豊臣秀次公より別して御懇にされており、
どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は、
忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故、
「秀次の一味である。」
と治部少(石田三成)の申立があり、これに是非無く思し召され、
聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、
伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、
御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。
伏見に於いて、黄金百枚の儀は、
「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで、
秀次公より借用したものであって、拝領ではない。」
との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様は、このように仰せになった。
「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」
この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、
この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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