有岡城から荒木村重が逃げた後、村重の妻子一族は織田方に捕らえられ、
処刑されることになった。
京都にて磔にされる時、細川忠興は奉行としてその場にいた。
村重の女房たちは忠興と顔見知りだったので、
「与一郎様頼みまする。」
と声々に泣き叫んだ。
光秀の娘が村重の息子に嫁いでいて、村重謀反の際に離縁し、
戻されたという経緯があるが、
忠興は光秀の娘を通じて女房たちと顔見知りになったらしい。
忠興は、その時のことについて、度々、
「哀れなことだ。」
と述べていたらしい。
そんな村重妻子のうち、郡主馬宗保の娘は乳母に隠され、
織田信澄や明智光春のもとを転々としたあげく、玉のところに行き着いた。
それが後の忠興の側室・お藤(松の丸)である。
後にお藤は、忠興の娘・おこほを産んだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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