天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、
松永久秀の与力である海老名某も、河内国片岡城に立て籠もった。
これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に、
「3人で押し寄せ、蹴散らせ。」
と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。
ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。
しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、
全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは、
「あれを討たすな!続けや!」
と我先に駆けつけ、これもあって、
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。
筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって、
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?
この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、
皆々、
「尤もである!」
と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。
それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて、
「一歩も引くな!」
と、それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。
しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに攻め立てさせたため、
死傷者多く出て残り少なくなると、
「今や叶わじ。」
と思ったか、城主の海老名は腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、
みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。
信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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