備中国の住人・三村修理亮家親の子、元親、実親という兄弟があった。
父・家親は、1年前に、
宇喜多和泉守直家の為に殺され、その後この兄弟2人は、
芸州毛利家へ使いを下した。
『親である家親は御味方に参り、ひたすら忠勤を成しました。
しかし宇喜多直家に欺かれ、益無く討たれたのです。
父の敵である直家を何としてでも滅ぼし、その恨みを晴らしたいと考えていますが、
我ら兄弟の力だけではいささか難し相手であり、
御太刀影(助太刀)をお頼みしたいのです。
宇喜多を滅ぼし父が死んだ恨みを散らし、我ら生前の鬱屈を晴らしたいのです。
家親の忠志を思し召し、お忘れでないのなら、御憐憫を給われば、
我ら二人もいよいよ御手に属し、忠節を励まします!』
これを吉川元春に、対して嘆き申し上げた。
ところが、宇喜多直家は三村兄弟が毛利へ訴えを行ったことを知るや、
毛利を敵に回してはかなわないと考え、
洲波隼人入道如慶という者を小早川隆景の元に参らせ、
また安国寺恵瓊を深く頼み、
『三村浦上を退治し、備中一国を尽く輝元公に差し上げるでしょう。』
と訴え申し上げた。
この時、毛利元就は既に老病の中にあり、
元春、隆景に対し、「能くはからえ。」と言うだけであった。
元春は、
「三村は父・家親の時代より当家馳走の者である。
宇喜多は一旦言葉巧みに、良きように言ってきても、
それを彼ら三村氏と取り替えるなど考えもできない。その上宇喜多は表裏の者である。」
そう再三に渡り主張したが、
宇喜多は安国寺恵瓊などを通して様々に小早川隆景に哀訴し、
ついには隆景も、
「人質などを出す上は別儀無いであろう。」
と、宇喜多の望みを叶えた。
小早川勢は南方(山陽)の担当であったため、山陽の勢力のことについては、
隆景の判断に任されていたのである。
その後、三村はついに宇喜多によって討たれたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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