慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より、
「豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」
との事で、御袋(淀殿)か秀頼が、江戸に下るように、との仰せがあった。
市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も、
「江戸に下る事は出来ない。」
との意向で、秀頼に至っては、市正が、
江戸にて心変わりしてこのような事を言っているのだと思った。
その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になった。
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったため、これを上らせ、
このように申し上げた。
「ここは御袋様が江戸に御下りになり、
家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」
太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、
逆に非常に御立腹されて、
「重ねてこのような意見を申してはならない。」
との返答をされた。
この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた。
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、
家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。
この時、太夫殿はこのように申し上げた。
「私は秀頼を攻めることは出来ません。
ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを、
「如何にも尤もな事だ。」
と思われ、
「備後守を急ぎ上らせるように。」
として、備後守は大阪へと上った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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