関ヶ原の後、慶長6年。
結城秀康が、越前の地を与えられ入部した時、
福島正則は、自ら北庄に赴きこれを賀した。
そこで、秀康の家臣の方を向いて、こんなことを語りかけた。
「私はこの後も常に門下として伺候したいのだが、
滞在する家がないのでそれがかなわない。
家を作るべき土地を給わりたい。
また、その後、正則が年来の好を忘れて参らなくなったとしても、
守殿(秀康)に天下の御大事があれば、正則は必ずお味方仕るだろう。
さりながら、私には太閤殿下より仰せ置かれた旨があるので、
この身が秀頼公の世にあるかぎりは、
なかなか心に任せることも出来ない。」
そういうと暇を請うて帰っていった。
私(新井白石)が想像するに、秀康公は太閤秀吉の養子であったので、
正則はその好を思っていたのではないだろうか。
また秀康公の御身に天下の御大事あらんと言ったのは、
秀康公は秀忠公の兄であったので、
家康公がお亡くなりになれば、必ず天下をめぐって争いが起こると考えたのではないか。
何れにしても、正則の心の中は測りがたいことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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