小田原役、豊臣方による韮山城攻め。
寄せ手の明石左近将監(則実)と前野但馬守長康は、十八町口へ押し寄せていたが、
突然城中より、丹波、富野、根府川、小野、広瀬ら三百余人が、門をさっと開くと、
どっと大波が押し寄せるように打って出た。
このため明石、前野の勢はたちまち谷底へと落とされ、思わぬ死傷者を出した。
これを見て、同じく寄せ手の福島左衛門太夫正則は、
鐘や太鼓を鳴らし鬨の声を上げて横合いより、攻め込ませた。
その中から福島丹波守治重、同式部丞、長尾隼人正一勝、村上彦左衛門、
大崎玄蕃允、可児才蔵、林亀之助、以下百人ばかりが抜け出し、城方へ逆襲した。
これに城主の北条美濃守氏規も七百人ばかりで打って出た。
氏規はその軍勢を二つに分け、左右より敵を押し包もうとした。
福島正則もこれを見ると、六、七百余騎を率いて自ら打って出て、
たちまち乱戦と成った。
敵味方入り混じり、火の出るような戦いがしばらく続いたが、
ややもすると上方勢がまくしたてられ、危うく見えた。
しかしここで寄せ手の控えの勢が、一斉に打って出れば、
敵を圧倒し城も落とせるように思われたが、
この韮山城攻めの総大将である織田内府信雄の下知はなく、
控えの部隊はただじっとその戦いを見ているだけであった。
そこからやや有って、織田内府の陣よりついに合図の法螺貝が鳴り、
寄せ手の総攻撃となった。
しかし北条美濃守は、これを聞くと即座に兵を退いた。
その進退の時期を得た絶妙さは、敵も味方も驚くほどであった。
それに対し、追い打ちをかけに福島正則の一隊が突き入ってきた。
この時、城兵は未だ城内に入る橋を渡り終えていなかったため、
美濃守は立ち止まって長刀を振るい、
追手を六人まで堀へなぎ落とした。
その勇猛さは阿修羅のごとく凄まじいものであり、
不動明王かと思われるほどの憤怒の形相に敵が怯んだ所へ、
城中より再び、横井越前守、小机修理亮、工藤次郎三郎、
以下六騎が取って返し、橋詰に並んで敵を防ぎ、その間に城兵尽く城中へと入った。
その後より、美濃守以下六騎が悠々と引き上げたのである。
ここでまさに城門を閉めんとした時、
首二つを掲げていた福島正則の家人・可児才蔵吉長が、
その首を投げ捨て持っていた鑓をその扉の間にさっと入れた。
このため門に隙間ができ、すかさず才蔵はえいと声をかけその扉を両手で押した。
これに城方も内より大勢で支えて押し返した。
寄せ手は才蔵に続き福島丹波守、林亀之助が駆けつけ才蔵に力を貸した。
内でも再び押し返す。
負けじと才蔵たちが押している所に、味方がどっと駆けつけた。
この時、城の堀の上と門脇の狭間より一斉に矢弾が飛んできて、
寄手二十人ばかりがたちまち討たれた。
それでも寄手は大崎玄蕃允、福島丹波守の郎党・小林平蔵、岡田新六郎なども加わり、
扉を押した。
またも狭間より鑓や薙刀が突き出され、小林と岡田が討たれ、
可児才蔵と大崎玄蕃允の浅手を負った。
こうして双方がえいえいと押し合っているうちに、
才蔵が差し挟んでいた鑓のケラ首が折れて扉は完全に閉まった。
この間にも長尾隼人正は三度まで塀によじ登ったが、二度は内より突き落とされ、
三度目はその口に敵の鑓の穂先が突き刺さって深手を負った。
このように福島正則の部隊はよく粘ったが、城兵もよく戦って防いだので、
正則は終に退却の貝を吹かせ、まだ城門で戦っていた四人を招き返した。
才蔵は穂先のなくなった鑓に最前捨てた首を、
もう一度拾ってくくりつけ、悠々と引き上げた。
そこで城中より、この四人を敵ながら天晴であると、その名を名乗るように言ってきた。
四人は橋の上に留まって、城へ向かって大音声で、
「福島左衛門太夫正則が家臣誰々。」
と名乗って退いた。
この時、城内の兵で、隙を狙って彼らを撃とうとする者があったが、
美濃守はそれを止めて、
「あたら冥加の武士を無碍に誅すれば、てきめん軍神の怒りに触れよう。
必ず手出ししてはならない。」
と戒めた。
かくて四人は何事もなく自陣へと帰った。
この一戦で、蒲生氏郷の手の者四百三十余人、福島正則の手の者六百八十余人が討たれ、
手負いは数限りなく有ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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